悲観する力を使い続けると疲れ果ててしまう人はどうればいいか

森博嗣の「悲観する力」を読んだ。(以下ネタバレあり)

言葉の定義が他の人とは違うだけで、工学的安全側を選ぶ、つまり、さまざまな不具合を想定し余裕をもって準備しておく、というものすごくまっとうなことが書かれていた。

それができない人のことを、別のところでは、「意志が弱いのではなく思考が弱い人つまり頭が弱い人」と仰っていた。挑発的な表現だけれど、私自身のことを鑑みても、自分が考えたことができないのは、何だかんだと理由をつけてもそのとおりだと思う。それに、ADHDなどの当事者は脳のまさにそこの機能の問題で苦労しているように思う。

考え続けると疲れる

仰ることはごもっともだけれど、あえてまだ言い訳をするなら、考えるにもエネルギーがいるのです。いわゆる「決断疲れ」と言われるもので、何かを吟味し選択し続ける過程それ自体により疲弊してしまう状態のこと。頭の後ろの方からじわじわっとまひしたようになり、壊れたロボットみたいに言葉を発することも動くこともできず目の前をぼーっと見つめることしかできなくなるような状態なのだけれど、この表現で理解できる人がいるだろうか。

「悲観する力」に欠けているのはこのエネルギーという視点である。体力や気力とはまた別のもののように感じている。このエネルギーは外的刺激によって黙って座っていても損なわれていくものである。

 

どうすればエネルギーを増やせるのか

これはいろいろと考えがあると思うけれど、まずは個性なので増やせない(もしくは増やそうするよりある分でやりくりした方がいい)という見方。

エネルギー量は個々の性質に直接的に関係しているので、それらが人より少ない(もしくは枯渇しやすい)ということを弱みとして捉えるのではなくむしろ強みの部分に注目して生きていこうとする考え方がある。

 

まずはいまの自分を客観的に受け入れ、その状態でもできる小さなことから始め、こつこつ積み重ねて習慣にしていく。やらないことにはどうにもならない、という事実は変えられないのだから、どうやってやるか、ということに集中的にエネルギーを使って考えるべきである。

 

しかし、やはり考え続けるとエネルギー切れを起こしてしまうことに変わりはない。

そうすると、次なる方法は「体力をつける」こと。

体力とはそもそも違うのだから無意味なのでは、と思うかもしれないけれど、体力がありあまっている子供を除き、抗わなければ徐々に老化とともに体は衰えていくばかりだ。体が衰えてもエネルギー量だけは変わらないなどという希望的観測はもてない。それに、体を動かすことは、精神、つまり脳に良い影響があることは知られている。精神的に弱ったら筋トレしろという人もいる。

 筋トレというと男性だけを想定されていると考えるかもしれないけれど、体力をつけるのに男女は関係ない。むしろ、筋力の少ない女性の方が筋トレした方がいいのではないか。

別にジムに行ったりする必要はない。自重トレーニングという方法がある。

 たとえば、この本の各ステップ1は女性でも簡単にできる。(表紙が衝撃的なので女性は手に取りにくいかもしれないけれど)

 

瞑想やヨガなどもいいかもしれない。あれは前頭葉の訓練だと思う。考えなければならないことによって頭がいっぱいになっている状態から、それらを一つ一つ拾い上げてはそれを観察し手放していくという繰り返しだ。これは、思考がそれたときにそれたことに気づき、集中した状態へ戻ることができるようにする訓練だと思う。いまはマインドフルネスのさまざまな入門書が出ているので入りやすい。

森博嗣とマインドフルネス

マインドフルネスと言えば、冒頭の「悲観する力」に戻るが、感情について書かれている部分で、まさにそれはマインドフルネスなのでは、と思われる個所があった。彼が続けていた落ち葉拾いもまさに瞑想の一種だと考えていたから、なるほど、と思った次第。

(見出しにしたのは字面がちょっと面白かったからです。)