老いることと育児

相田家のグッドバイを再読したので感想を少し。

(以下、少しだけネタバレがあります)もう一度読んでみようと思ったのは、新しい本でそれがほぼ実際にあったことだと書かれていたからです。最初に読んだときは悲しく寂しい話だと思いました。けれど、だいたいにおいて人の人生が終わっていくことを主題に描かれた物語はそういうもので、私にとって希望しか与えなかった森博嗣が、そういう物語を書くようになったのか、ということが意外でした。それはキシマ先生の話を読んだときのショックと同じ種類のものでした。こちらもほぼ実際にあったことのようです。やはり、誰にとっても現実の手触りというのはそういうものなのかな、と想像します。つまり、悲しくて寂しい。フィクションは本当に優しくて、理路整然としています。その確かさが読んだ後にもつれた考えでいっぱいの頭の中を、少しの間だけクリアにしてくれていました。整理整頓した直後の部屋のように。

老いとは誰にでも訪れ、避けられないのに、人はそのことを考えないようにしていて、突然何かの不具合が起こったときに驚き、怒り、悲しむ

できていたことができなくなって、痛みや不具合を抱えながら決してよくはならないのが老いというものでしょうか。徐々に体が動かなくなって寝たきりになり、細胞の自己修復機能が追いつかなくなって、あらゆる機能が低下して死を迎えるというイメージ。まるで動くことをやめたら倒れてしまう自転車みたいで、そのことを考えると疲労感と憂鬱を覚えます。つまり、人生はただ転ばないように自転車を必死でこいでいるような営みなのだろうかということです。遅かれ早かれ自転車は倒れてしまいます。

余裕がない人は(つまり今の自分なのだけれど)、こぐことだけしか考えられず、周りを見回す余裕もありません。何か楽しいことがあるよ、と言われても、こぎ続けないと倒れてしまうから、こぐことに集中してしまって、この行為がただただ苦しいとしか思えない状況にあります。自分から倒れてしまうわけにもいかないので、早くこの時間が過ぎ去ってくれないかとばかり考えてしまうけれど、過ぎ去ったときにはもう自分もいないわけです。

 

あの柔らかさにおののくことから始まる

老いることとは逆に、赤ちゃんは最初一人で生きる能力を持たず、近くにいる人に全面的に世話をされながら、できることを増やしていきます。ミルクを飲んで寝て泣いて排泄して風呂に入れてもらい、徐々に大きくなっていくのです。いつ自己意識ができるのでしょうか。自分という存在を認識する時期がきっとあるに違いないと思うのだけれど、自分のことを振り返ってみても、いつの間にか自分は自分だったように思います。

 

最近、老いと赤ちゃんの成長とを同時に間近で見る機会がありました。どちらも少しだけしか関わらなかったけれど、どちらも言葉にする以上に大変なことだと知りました。毎日休みなく続くことが困難さを深めているように思います。当事者および関係者はどれほどの苦労でしょう。

特に、老いに関しては、自分もこうなるのだ、という視点で考え、敬意をもって接したい。そのためには、突然の状況に慌てることのないよう予習をしておくことが大事だと思いました。